禅から学ぶ現代に通じる生き方とは?


本質的な真理は普遍的なものであると仮定すると、現代でも捉え直すことで学ぶことが多いのではないか。
そのような背景から禅語を読んでみました。

その中から特に面白かったのをいくつかご紹介します。

挨拶

これって「おはよう」とか「さようなら」とかそういうイメージありませんか?
実はもともとの意味としては「禅宗で、僧が問答を繰り返しやり合うこと」だったそうです。
それが転じて「毎日交わす会釈、受け答え」の意味になったそうです。

漢字を見てみると、「挨」は押し迫る、という意味で「拶」もせまる、の意味を持つのだそうです。
この文字だけをみると強く圧するような迫力を持っていると筆者は書いています。
ここで筆者は、満員電車でぎゅうぎゅうに体をおしつけ合っていても言葉を交わさなければ他人であり、
一度言葉を交わせばモノから人に変身したようにあざやかに景色の中に浮かび上がって見える。と表現しています。
たしかに、一度言葉を交わすかどうかは重要だと僕も感じています。

大学に入学して、まず最初にやったことは学科が100人しかいなかったので、全員と話したことです。
たった一度言葉を交わすだけで障壁はかなりなくなる気がします。

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石圧笋斜出 岸懸花倒生
(いしあっしてたかんななめにいてで きしにかかってはなさかしまにしょうず)

意味は「たけのこは石をよけて斜めに生え、岸壁の花は逆さまになってでも咲く。
人をみちびくときには、相手の内面や状況に合わせて、やり方を変える」だそうです。

意味は相手ありきな書き方をされてますが、これは自分自信に対することでもあるとのこと。
できない理由を探しては、やりたいことをできずに終わり後悔する。
そうではなく、できる理由を探しましょうとのこと。

たしかに自然のものは「生きるか死ぬか」のどちらかを描いているので力強く感じます。
ただ、僕らが感じることはやらなくても死にはしないことが大きく違います。
それも捉え方次第かなと個人的にはおもっており、諦めるだけの人生は自分の人生を諦めたことになるに近しいのかなと。
それはつまり、言葉を選ばずに言うのであれば仮死状態と言えるのかもしれません。
そう感じることは難しいのですが、きっと大成を成してきた人たちはそういう心積もりで生きているのだと思います。

現代でも同様に感じることが禅宗ができた時から普遍的にあります。
きっとそれは人生において普遍的なことだからこそ説かれるのだと思います。
自問自答ができる論語や禅語、機会があればぜひ読んでみてください。