日常を非日常に変えるたった一つのコツ
もしも。
もしも、あなたが盲目ならばどんな世界が広がっているでしょうか?
もしも。
もしも、全人類が盲目ならばどんな世界になるでしょうか?
僕らは目に見えることを信じやすい生き物です。
そして同じものに囲まれると安心する生き物です。
つまり、目で見える同じ環境の中にいると安心感を抱きます。
例えば、多くの人がユニフォーム(形式ばった服装の意味:制服やスーツなど)を着ている中で、自分だけ私服だと違和感を感じます。
極端な例を出すと、同じ人間の環境にいる時に最も安心します。
さて、前ふりはここまでにしておきます。
ようは「目が見えるから信じることができ、安心感を抱くことができるということです。」
つまり視覚は「存在を信じることができる一つの要素」ということです。
(目に見えてるけど存在しないことは現代ではありえませんが、将来的にはありえるかもしれませんね。)
もしも盲目だったとしたらどうでしょうか。
触覚や嗅覚、味覚、聴覚があればその物質の存在を知ることができます。
しかし、それが人間なのかどうかまでは信じることができません。
なぜなら世界を見たことがないので信じることができません。
僕らは今までの経験の中でそれが人間だと信じているから目の前の人を人間だと信じることができるのです。
もしも、英語を話せるインコがいたらどうでしょうか。
それを触るまではそれが人間ではないと言い切れません。
ソースをかけたハンバーグと豆腐ハンバーグでは違いが分からないかもしれませんね。
それは食べ物としか認知できないのでしょう。
そしてもう一つ。
もしも。
もしも、この世界がモノクロの世界ならばどんな世界になるでしょうか?
色がない世界。
肌の色による人種差別はなくなります。(もちろん、他の要素で差別は起こりえますが。
服の特徴がカタチだけになってしまいます。
つまり、「個性を表す一つの要素」と捉えることができます。
色がなくなれば個性は限りなく薄くなることでしょう。
しかし、色がなくなれば見えてくるものがあります。
それはその存在の本質です。
つまり、「物質の本質はカタチである。」ということです。
単純なことですが、それはまた難しいことです。
ここでまた人種の話をしてみましょう。
肌の色が関係なくなった世界では何が起こるか。
それは「目の前にいるのは白人でも黒人でも黄色人種でもなく、人間。」ということです。
それがカタチの本質の意味です。
もしも、肌が緑色の人がいれば、おそらくほとんどの人が近寄らないでしょう。
それは自分とは異なる生き物だから安心感を抱くことができないためです。
人間とみなすことができないためです。
まとめると
1.人は目が見えるから経験をもとに目の前の物質の存在を信じることができる。
2.人は色を識別することができるから目の前の物質の個性を認知することができる。
ということです。
やっとここで結論です。
言いたいことは
「自分を見つめることで彩りをもたせ、日常に起こる事象を大切にすることで彩りをもたせる。それによって、より彩りをもった人生を過ごすことができる。」
ということ。
つまり
「もっと日常を大切にして人生を楽しんでみませんか?」
という提案です。
僕らは目が見えて、色が識別できるからこそ個性をもつことができる。
それはもちろんメンタルの面でも言えるでしょう。
自分にしかない人生があり、それが自分なりの彩りであり、個性です。
日常に自分という個性で楽しむことができたらなら、その日常は非日常と感じられるでしょう。
それが日常における個性です。
つまり、日常というのは誰にも平等に与えられる時間を表す言葉です。
それとは対象に、非日常というのは自分にしかない時間を表す言葉です。
なぜこのような言及をするのかというと、自分の考えを持たずに同じ方向に向いて歩く人が多い気がするからです。
皆と同じでいいとか、違うことをして目立ちたくないとか、耳にすることも少なくないです。
それは安心感を求める保守的な行動でなければいいのですが、ほとんどの場合がそのような理由からの行動です。
それでは個性がなくなってしまいます。
すると日常が訪れます。
日常は退屈です。
なぜなら皆に平等に与えられた時間なので、自分の個性が認知されないからです。
そんな単調な時間を過ごした人生は語れることも少ないでしょう。
自分にしかない時間を過ごして、人生を更に楽しんでみませんか?
日常に彩りを。
*写真: Google より